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前回の復習

1931年の満州事変から、1945年に太平洋戦争が終わるまでの約15年間。
この時代は、中学受験の歴史において「最大の難所」と言われています。
とにかく、
「戦争や事変の名前」(満州事変、日中戦争、太平洋戦争……)
「衝撃的な事件の順番」(五・一五事件、二・二六事件……)
「めまぐるしく結ばれる条約や同盟」(日独伊三国同盟、日ソ中立条約……)
が怒涛の勢いで登場するからです。
「言葉が多すぎて覚えられない!」
「順番がごちゃごちゃになる!」
と、ここで歴史が嫌いになってしまう受験生が後を絶ちません。
なぜ、当時の日本はこれほどまでに次々と事件を起こし、戦争へと突き進んでしまったのでしょうか?
実は、一見すると泥沼のように複雑に絡み合っている戦前の歴史は、「世界的な大不況から何としてでも抜け出すために、日本が必死に取った行動」という1本の強力なストーリーで、すべてきれいに丸ごとつながります。
この「なぜ?」の背景にあるつながりをマスターすれば、入試で頻出する「できごとの並び替え問題」や、理由を問われる「記述問題」で無双できる圧倒的な実力が身につきます。
モコスタ責任者
小暮 真也

大学卒業後、大手進学塾にて25年以上にわたり中学・高校受験指導に従事。
圧倒的な指導実績と、海外7カ国での帰国生入試対策という独自のキャリアを持つ、受験対策のスペシャリスト。
主な実績・経歴
難関校合格実績: 男女御三家、早慶付属中高など、超難関校への合格者を多数輩出。
グローバル指導: 海外7カ国にて駐在員子女を対象とした帰国生入試指導を歴任。
キャリア: 25年以上の指導歴で培ったノウハウを「モコスタ」に全投入し、受験生を第一志望校合格へと導く。
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世界恐慌(1929年)と昭和恐慌:すべての引き金となった大不況

なぜ、大正時代に民主主義や平和を求めていた日本が、昭和に入った途端に激しい戦争への道を歩み始めてしまったのか。
その謎を解く最大の鍵(根本的な原因)が、1929年に発生した世界最大の大不況です。
1929年:世界恐慌の始まり
1929年10月、アメリカのニューヨーク(ウォール街)にある株式市場で、株価が大暴落しました。
これをきっかけに、当時の世界経済の中心だったアメリカの銀行や工場が次々と倒産。
またたく間に世界中へ不景気が飛び火したこの現象を世界恐慌といいます。
欧米列強の対策(入試記述の超定番!)
この未曾有の大ピンチに対し、世界の大国たちは生き残りをかけて独自の対策をとりました。
ここが記述問題で最も狙われます。
- アメリカ:ニューディール政策
- ルーズベルト大統領が指導。政府がお金を出してダム建設などの巨大な公共事業を起こし、失業者に仕事を与えて経済を復活させようとしました。
- イギリス・フランス:ブロック経済(ぶろっくけいざい)
- 世界中にたくさんの植民地を持っていた英仏は、自分の国と植民地の間だけで貿易を完結させる「ブロック(囲い込み)」を作りました。ブロック外の他国(日本など)の製品には高い関税をかけて締め出したのです。
日本の大ピンチ:昭和恐慌
大国たちがブロック経済で自国を守るなか、世界から完全に弾き飛ばされてしまったのが日本でした。
当時の日本は、生糸(絹の原料)や綿織物をアメリカやアジアに輸出して稼いでいましたが、恐ろしいほどの勢いで輸出がストップ。
工場は次々と閉鎖され、街には失業者が溢れかえりました。
この日本国内の凄まじい不景気を昭和恐慌と呼びます。
特に悲惨だったのが農村です。
大凶作も重なり、お米や繭の価格が暴落しました。
絶望から生まれた「満州進出」への世論
国民が飢えに苦しむなか、当時の政党政治家たちは有効な解決策を打ち出すことができませんでした。
不満と絶望が限界に達した日本国民の目は、ある一つの場所へ向くことになります。
それが、中国の東北部にある満州でした。
満州には日本の土地に比べ、何倍もの豊かな資源と、作物を育てられる広大な大地があります。
「ここを日本のものにできれば、仕事も資源も手に入り、この地獄のような不景気から抜け出せるはずだ!」という、軍事力で領土を広げようとする強い世論(国民の声)が国内で急速に高まっていったのです。
こうして、経済の破綻という「引き金」が引かれ、日本は一気に大陸への侵略へと舵を切っていくことになります。
「なぜ満州だったのか」の理由
入試では、日本が満州を求めた背景を問う問題が出ます。「世界恐慌(昭和恐慌)による不景気から抜け出すために、新たな市場(商品の売り先)と豊かな資源を必要としたから」という因果関係をしっかり頭に刻み込んでください。
国民の不満を背負い、ついに日本の軍部が独断で暴走を始めます。
満州事変から国際連盟脱退へ:孤立していく日本

昭和恐慌という大不況から抜け出すため、ついに日本の軍部が中国大陸で独断の暴走を始めます。
日本が世界を相手に暴走し、そして国際社会から見放されていくプロセスを、入試に直結する時系列で整理していきましょう。
1931年:満州事変
1931年9月、中国の満州(現在の中国東北部)にいた日本の陸軍(関東軍)が、自ら南満州鉄道の線路を爆破しました。
これを柳条湖事件といいます。
関東軍は、なんとこれを「中国軍のしわざだ!」と嘘の発表をし、政府の許可を得ないまま勝手に中国軍への攻撃を開始。
またたく間に満州全土を武力で占領してしまいました。
これが満州事変です。
翌1932年には、清の最後の皇帝だった溥儀をトップに立て、日本の操り人形の国である「満州国」の建国を勝手に宣言しました。
1932年:五・一五事件
関東軍の暴走に対し、当時の日本の政党政治家たちは「これ以上、中国を刺激して国際社会から孤立するわけにはいかない。満州国を認めるべきではない」とブレーキをかけようとしました。
これに激怒したのが、国内の軍人たちです。
1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸を襲撃し、当時の犬養毅首相を射殺しました。
この事件によって、大正時代の原敬内閣から約8年間続いていた「政党政治(衆議院の第一党が内閣をつくる民主的な仕組み)」が完全に終了しました。これ以降、日本の総理大臣には軍人や官僚が選ばれるようになり、国全体が軍部の言いなりになっていくのです。
1933年:国際連盟からの脱退
日本の暴走に対し、中国は「日本が不当に領土を奪った」と国際連盟に訴えました。
連盟はイギリスのリットンを団長とする調査団を現地に派遣(リットン調査団)。
出された結論は、「日本の満州国建国は認められない。日本軍は速やかに撤退しなさい」という、日本にとって非常に厳しいものでした。
1933年、国際連盟の総会でこの報告書が圧倒的多数で可決されると、日本の全権(代表)であった松岡洋右は演説ののち、堂々と議場を退場。
日本はそのまま国際連盟を脱退しました。
こうして、世界の五大国(常任理事国)の一員だった日本は、自ら国際社会のルールを破り、ひとりぼっちの「孤立」への道を歩み始めることになったのです。
「柳条湖事件」と「盧溝橋事件」の区別
入試で受験生を揺さぶるナンバーワンの引っ掛けです。
- 1931年:満州事変のきっかけ = 柳条湖(りゅうじょうこ)事件
- 1937年:日中戦争のきっかけ = 盧溝橋(ろこうきょう)事件
国際社会から飛び出した日本は、さらに軍部の暴走を止められなくなり、国内でも恐ろしい大事件が発生します。
二・二六事件と日中戦争

国際連盟を脱退し、ひとりぼっちの道を歩み始めた日本。
国内では軍部の暴走を止める者が誰もいなくなり、ついに首都・東京を揺るがす大事件が勃発します。
そして、その混乱のなかで中国との全面戦争へと突き進んでいく様子を整理していきましょう。
1936年:二・二六事件
五・一五事件から4年後、さらに大規模で過激な事件が起こります。
1936年2月26日、積雪の残る東京で、陸軍の青年将校たちが約1,400人もの兵士を率いて反乱を起こしました。
彼らは首相官邸や政府の重要拠点を襲撃・占領し、内大臣や大蔵大臣など国のトップ政治家たちを次々と暗殺。
東京の中心部は一時、反乱軍によって占領される事態となりました。
結果的にこのクーデター(武力による政権奪取)は、天皇の厳しい命令などによって数日後に鎮圧されます。
しかし、この事件をきっかけに「軍部に逆らったら命が危ない」という恐怖が日本中に植え付けられ、政治家も国民も軍部の暴走を一切批判できなくなってしまいました。
国家の主導権は、完全に陸軍を中心とする軍部の手に渡ることになります。
1937年:日中戦争の勃発
国内を完全にコントロールした軍部は、いよいよ中国への侵略を本格化させます。
1937年7月、北京郊外の盧溝橋という橋の付近で、日本軍と中国軍の間で原因不明の銃撃戦が発生しました。
これを盧溝橋事件といいます。
日本政府は事態を大きくしない方針をとろうとしましたが、現地での戦闘は拡大。
こうして、事変(局地的な戦闘)ではなく、終わりなき全面戦争である日中戦争へと突入しました。
「五・一五」と「二・二六」の完璧な区別
入試の正誤問題・並び替え問題で最もごちゃ混ぜにされやすい2つの事件です。
| 事件名 | 年号 | 起こした軍人 | 内容 |
| 五・一五事件 | 1932年 | 海軍の青年将校 | 犬養毅首相を暗殺。政党政治が終了した。 |
| 二・二六事件 | 1936年 | 陸軍の青年将校 | 東京の中心部を占拠。軍部の発言力が絶対的になった。 |
長引く日中戦争は、日本国内のすべての資源を食いつぶし始めます。
「兵隊も、武器も、食べ物も、何から何まで足りない!」という極限状態に追い込まれた政府は、ついに国民のすべての自由を奪う最悪の法律を制定することになります。
国家総動員法と戦時体制下の暮らし
日中戦争が泥沼の長期戦になると、日本国内の物資や資金はあっという間に底をつき始めました。
戦場で戦う兵士だけでなく、日本に残った国民の生活、そして国内のすべての工場や資源を「戦争のためだけ」に強制的に従わせるため、政府は国民の自由を完全に奪う体制へと舵を切ります。
1938年:国家総動員法の制定
1938年、近衛文麿内閣のもとで国家総動員法が制定されました。
これは中学受験の歴史において、数ある法律の中でもトップクラスに出題率が高い超重要法律です。
【法律の内容】
戦争中、政府が国会の承認(話し合い)を経ることなく、国民(労働力)や物資(資源・工場・資金)をすべて戦争のために強制的に動員できるという、恐ろしい権限を政府に与える法律でした。
【「お国のために」奪われる自由】
この法律により、一般の労働者は強制的に軍需工場(武器や軍服をつくる工場)へと配置され、学校の授業を止めて学生を働かせる「学徒動員」や、未婚の女性を集める「女子挺身隊」へと発展していきました。
戦時体制下の苦しい暮らし
戦争が激しくなるにつれ、国民の「食」や「住」の自由は完全に失われていきました。
【配給制ときっぷ制】
お米や衣類、砂糖やマッチといった生活必需品は、お店でお金を出しても自由に買えなくなりました。国から配られる「きっぷ」や「通帳」と引き換えに、決められた量だけを分けてもらう配給制やきっぷ制が導入されたためです。主食のお米が足りなくなると、大豆のカスやサツマイモ、雑穀などが混ぜられ、国民は常に飢えと戦うことになりました。
【「贅沢は敵だ!」と消えた娯楽】
街頭には「贅沢は敵だ!」「欲しがりません勝つまでは」といったスローガン(標語)が掲げられ、お洒落をすることや映画・演劇などの娯楽は「非国民」として厳しく取り締まられました。
【金属類の回収(金属供出)】
大砲や鉄砲の弾をつくる鉄や銅が圧倒的に不足したため、お寺の鐘、学校の二宮金次郎の銅像、家庭の鍋や釜、スプーンに至るまで、あらゆる金属が国に回収(供出)されて溶かされました。
国民を監視する仕組み:隣組
国民が政府への不満を口にしたり、戦争に協力しなかったりするのを防ぐため、地域ごとに数軒の家をひとまとめにした隣組という組織が作られました。
隣組は、配給の物資を分ける窓口としての役割を持つ一方で、「お互いに怪しい動きや非国民な発言がないかを監視し合う」という相互監視の役割も担っていました。
これにより、国民は近所の人たちの目を恐れ、戦争への協力を拒むことができなくなっていったのです。
「国家総動員法」の記述キーワード
入試で「国家総動員法とはどのような法律か、説明しなさい」という記述が出たら、必ず「国会の承認なしに、人や物資などのすべての資源を戦争のために強制的に動員できる法律」と答えましょう。「国会の承認なしに」というフレーズが、採点基準の大きなポイントになります。
国内を完全に戦争一色に染め上げた日本は、中国との泥沼から抜け出すため、さらなる賭けに出ます。
ヨーロッパで勢力を広げていたドイツ・イタリアと手を結び、ついに世界最強の国・アメリカを相手にした世界大戦へと突入していくのです。
太平洋戦争の勃発と終戦への道のり
長引く日中戦争の突破口を開くため、日本はさらなる勝負に出ます。
しかしその選択は、アメリカやイギリスをはじめとする世界の大国をすべて敵に回す、破滅的な大戦への入り口でした。
世界を震撼させた大戦の勃発から、終わりを迎えるまでの道のりを整理します。
1940年:日独伊三国同盟
1939年、ヨーロッパでドイツが第2次世界大戦を起こすと、日本はドイツの圧倒的な強さに目をつけます。
1940年、日本はヨーロッパを支配しつつあったドイツ、そしてイタリアと日独伊三国同盟を結びました。
日本は「強力なドイツと手を組めば、アメリカもビビって手出ししてこないだろう」と考えたのです。
しかし、これは完全に逆効果でした。
アメリカやイギリスは日本への警戒を最大級に強め、日本への石油の輸出を完全にストップ。
これにより、日本は「戦うか、資源が尽きて降伏するか」の極限状態に追い込まれます。
1941年:太平洋戦争の開始
1941年12月8日(アメリカ時間7日)、東条英機(とうじょうひでき)内閣のもと、日本軍はハワイの真珠湾(パールハーバー)にあるアメリカ海軍の基地を予告なしに奇襲攻撃しました。
同時にマレー半島(イギリス領)にも進攻。
こうして、アメリカ・イギリスなどの連合国を相手とする太平洋戦争が始まりました。
最初の数ヶ月こそ日本軍は優勢でしたが、圧倒的な工業力と資源を持つアメリカが本気を出すと、形勢は一気に逆転。
1942年のミッドウェー海戦での大敗をきっかけに、日本は坂道を転げ落ちるように敗戦へと向かっていきます。
1945年:焦土と化した日本、そして終戦へ
1945年に入ると、日本の敗色は決定的になります。
アメリカ軍による激しい空襲(東京大空襲など)によって主要都市は次々と焼け野原になり、沖縄では民間人を巻き込んだ凄惨な地上戦が行われました。
そして1945年8月、歴史の教科書に刻まれる最悪の1週間が訪れます。
- 8月6日:広島に世界初の原子爆弾(原爆)が投下される。
- 8月8日:日本と不可侵条約を結んでいたソ連が、条約を破って日本に宣戦布告。満州へ攻め込んでくる。
- 8月9日:長崎に2発目の原子爆弾が投下される。
もはや一刻の猶予もなくなった日本政府は、1945年8月14日、連合国が突きつけていた無条件降伏の要求(ポツダム宣言)を受け入れることを決定。
翌8月15日、昭和天皇がラジオ放送(玉音放送:ぎょくおんほうそう)で国民に敗戦を伝え、足かけ15年に及んだ戦争の時代はついに幕を閉じました。
原爆・ソ連・ポツダムの順番
入試の並び替え問題で最も受験生を苦しめるのが、1945年8月の超超過密スケジュールです。「広島(6日)→ソ連参戦(8日)→長崎(9日)→終戦(15日)」の順番は、記述や並び替えで確実に狙われます。
まとめ
複雑に見えた昭和初期の歴史ですが、こうして振り返ると、すべてが「ドミノ倒し」のような因果関係でつながっていることが分かります。
- 【世界恐慌】で大不況になり、日本が困り果てた。
- 不況を解決するため、軍部が暴走して【満州事変】を起こした。
- 世界に怒られたので、キレて【国際連盟を脱退】し孤立した。
- さらに中国へ攻め込んで【日中戦争】になり、泥沼化した。
- 資源が足りなくなり、国内の全てを縛る【国家総動員法】を作った。
- アメリカに石油を止められ、一発逆転を狙って【太平洋戦争】を始めた。
- 圧倒的な物量差で敗北し、【ポツダム宣言】を受け入れて終戦を迎えた。
言葉を丸暗記しようとするから歴史は難しく感じられます。
しかし、ストーリーさえ頭に入っていれば、どんな並び替え問題が出ても、頭の中でドミノを順番に倒していくだけで正解にたどり着くことができます。
歴史は流れで覚えることが、とても大切です。
その上で、用語を漢字で書けるよう練習しておきましょう。
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